私の目標は、ずばり!今までの歯医者のイメージをくつがえす事!!
歯医者というと「痛そう、怖そう、怒られそう」といったあまり行きたくないネガティブなイメージがあるかと思いますが、
本当の歯科医療って、全然そんなんじゃないんです。
本当の歯科医療は、患者さまにやさしい医療。
患者さまの歯を守り、何でも食べられる喜びや、お友だちとおしゃべりして笑いあう幸せを守るもの。
痛くないし怖くない!むしろ通うのが楽しい。
通うとキレイになれるし、いつまでも若々しくいられる、病気をしにくい健康な人生をおくることができる。
このポジティブなイメージをより広く知ってもらい、そして体験してもらうために、一所懸命にがんばっています。どうぞよろしく!
| 1974年 | 大阪府堺市生まれ |
| 1999年 | 歯科医師免許を取得し、大阪歯科大学付属病院勤務 |
| 2001年 | 結婚を機に高知へ移住 |
| 2003年 | 技術と経営の勉強のためいったん大阪に戻る。(医)真摯会クローバー歯科クリニック副院長就任 |
| 2007年 | 妻の実家である國澤歯科を継承し、立て直しに奮闘する。同年診療所を改名・移転 現職 |
| ・・・ | 現在に至る。 |
わたしは、代々続く歯科医師の家系で、代々続くクリスチャン一家という、
ちょっと日本では珍しい家に生まれました。
わたしが生まれたのは、クリスマス間近の日曜の早朝でした。
その日はとても寒い日で、母が言うには、分娩室でさえ寒く凍えるようだったそうです。わたしの誕生は、すぐに祖父に伝えられました。彼は、クリスマス礼拝で華やぐ教会に急ぎ、会衆に自分の喜びを爆発させて祈ったそうです。
「今朝、神様に祝福された孫が生まれました!
この子は、歯医者になることを運命づけられた子です。どうぞ良い歯医者になれるよう、神様見守っていて下さい!」
わたしがその話を聞いたのは、信仰も持たず、進路に迷う高校生の頃でした。
その頃のわたしは、現代文のテストで学年一位を叩き出す(他に得意分野がない)ような文系人間でしたから
「考古学者になって、古墳の発掘が出来たらいいな(家の近所は古墳だらけでした)」なんて思っていました。
だから、その話を聞いた時も「そんな運命ナイナイ」と思っただけでした。
ところが、ある日一大転機がやってきます。
それは、毎日入り浸っていた学校図書館の司書の先生(大阪のオバチャン)の一言が発端でした。 「日野君、あんたのお父さん、わたしが知っている中では一番の名医やで。あんた跡継いで、ワザも継がなあかん! でないと、患者さんみんな困りはるで! わたしもやけどな(笑)」それまでは父のことを「小さな歯科医院を細々と経営している、クソ真面目で、職人肌で、派手な付き合いを嫌い、趣味もない、 毎日疲れた顔して帰ってくる父親」としか思っていませんでしたし、歯医者とはそんな魅力のない仕事だと思っていました。
しかし、信頼していた先生から思わぬ父の評価を聞き、改めて父の凄さと、父の仕事の重要性に気付かされたのです。
わたしが歯学部を目指して真剣に勉強するようになったのは、高三の二学期に入ってからでした。
理系教科が不得手と言う巨大なハンデを背負いつつ、浪人覚悟でぶつかったところ、冬は雪が積もるような田舎の歯学部になんとか滑り込むことができました。
こうして、わたしの歯科医師人生は、運命のレールに導かれ、ガタガタと不協和音を響かせつつスタートしたのです。
わたしが入学したのは、岐阜の朝日大学という学校でした。
岐阜というところは、夏は日本一暑いのに冬は平野でも雪が積もるところです。大学の周囲もとんでもない田舎で、田んぼと農業用水だらけ。 わたしの下宿も周囲360度田んぼで、ウシガエルの大合唱が春を告げます。そんなところで一人暮らしをしながら歯医者を目指して勉強をはじめたのですが、 最初はつまづいてばかりでした。 歯学部は、卒業に6年かかります。おおまかにいうと、1年2年は一般教養・基礎科学で、3年4年は基礎医学と基礎歯科学、 5年6年で臨床歯科学を学びます。
正直に申し上げると、最初の頃はビリから数えた方が早いくらいの成績で、
どっちかというとアホな学生グループに分類されていました。講義を聞いてもサッパリ分からない日々に落ち込む一方で、
一人暮らしの心細さもあり、半分不登校になってしまったことも。見るに見かねた同級生が学校に引き戻してくれましたが、
勉強できない苦しい日々が続き「歯医者になれないかも……」と思いながら学校に通っていました。
しかし、なんとか留年だけはせずに進級していると、専門性が高まるにつれ、
なぜかどんどん成績がアップしてきたのです。
教科書を読み講義に出ると、内容がスラスラ頭に入っていきます。専門教科で最も難解と言われる「咬合学」でさえ、 同級生に教えることができるほどに理解していました。
残念ながら首席とまではいきませんでしたが、入学時ドンケツだったわたしがトップグループで卒業し、歯科医師国家試験も一発合格で、
夢を叶えることができました。
今にして思えば、あの砂を噛むような苦しい時期を乗り越えたことと、その時手を差し伸べてくれた友情の存在が、今でもこころの支えになっている気がします。
卒業してすぐ大阪の実家に戻り、 大阪歯科大学の附属病院で卒後研修を受けました。
ベテランの指導医とペアになり、実際の患者さまを診療させてもらう修行の日々です。
症例について指導医と話し合い、知識と経験を高めていきます。
きつい勤務の日々ではありましたが、仕事が嫌だと思うことだけはありませんでした。
卒後研修の修了年限は1ヵ年だったのですが、このあと希望して2年間医局に残り、
研修医と指導医の橋渡しをするチューターとして活動しつつ患者さまの治療にあたり、
特に入れ歯の技術に重点を置いて修行を続けました。
ある程度ひとり立ちできる程度の技術が身についた2001年、今の妻と結婚し高知へ移住しました。
食いしん坊のわたしは、高知の地の食べ物の美味しさを堪能しつつ、幸せな私生活を楽しんだのですが、ここで歯科医師としての修行が前に進まなくなってしまいます。
専門書を取り寄せたり、ビデオ教材を見たりするのですが、小手先の技術ばかりがうまくなり、大きな意味での成長が見込めなくなったのです。 仕方がないので、もう一度大阪に帰ることにしました。
真摯会での修行は、
かつてない熾烈なものでした。
そんな真摯会勤務の中でも最も貴重な経験は、新たな分院展開のときオープニングスタッフに選ばれたことです。理事長・事務長とともに新たな医院を一から作る経験をさせてもらいました。
立地条件の検討、医院設計、スタッフの求人と教育、新規医院によく生じるトラブルへの対処など、マネジメントの実務を実地で勉強させてもらいました。 ここでの勤務がなければ、わたしは「ちょっと手先が器用な歯医者」どまりだったでしょう。
真摯会では、多忙を極めつつも充実した日々を送っていました。
その頃のわたしは、分院の副院長としてチームをまとめ、院長が辣腕を振るえるようにサポートする役割を担っていました。 あと2~3年もすれば次の分院長となる内示も受け、仕事が楽しくてしょうがない時期でした。しかし、そんな修行の日々が突然終わりを告げます。高知の義父がガンで余命いくばくもないことが分かったのです。
わたしは、大阪での仕事を急いで手仕舞いし、再び高知へ帰ることにしました。 もう「後のことは、わたしに任せてください」言う意外に、恩返しの方法が思いつかなかったのです。
こうしてわたしは、義父の診療所を引き継ぐことになりました。
義父が守ってきたものを失うわけにはいかないし、 長く勤めてくれているスタッフの雇用も守らなければなりません。院長の不在でガタガタになった屋台骨を立て直すために、大阪で学んだノウハウを全部ぶち込みました。 紆余曲折あって診療所を移転することになりましたが、 義父が経営していた國澤歯科診療所のエッセンスは保ったまま、2007年7月にアポロニア歯科クリニックのオープンに漕ぎ着けました。最後まで読んで下さってありがとうございました。


